アイウィル 社員教育 研修日程

 

 

 

<畠山裕介の新刊>

畠山裕介の最新刊『仕事を決める和文力』
畠山裕介の最新刊
『仕事を決める和文力』
人の心を動かす文章を書く方法とは

お求めは全国の書店またはアイウィルまで

畠山裕介の『人と話の交差点』

 

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

 

「人と話の交差点 308」  畠山裕介

 

楠正成の絶対的忠義

 

-ナンバー2(35)-

 

皇居に二体の銅像が立っている。皇国に尽くした二大忠臣の像である。一体は怪僧弓削道鏡〈ゆげのどうきょう〉の皇位簒奪〈さんだつ〉を防いだ和気清麻呂〈わけのきよまろ〉。もう一体が後醍醐天皇を補佐して身命を投げ出した楠正成〈まさしげ〉である。

三一歳で即位した後醍醐天皇は気性が激しかった。幕府の干渉は越権行為とみなした。〝討幕しかない〟と天皇は決意する。

天皇は夢の中で正成の存在を知り、ただちに呼び出す。正成は意気に感じ、みずから軍事面の補佐を買って出る。

天皇は五〇万とも言われる北条鎌倉幕府と戦い、敗れた。謀反人として、隠岐に流される。

赤坂城で戦った正成は城に火を放ち、姿を消した。

一年後、正成は突如姿を現し、赤坂城を奪う。そして山中に千早城を築き、徹底抗戦を図る。

驚いた幕府は八〇万の大軍で力攻めをかけるが、何ヵ月経っても落ちなかった。この「落ちない」という現実は重要だった。

幕府が大軍を送り込んでも、正成の小さな城ひとつ落とせない。この噂は日本全国に広まった。幕府に不満を持つ武士の多くが立ち上がった。武家の名門たる足利尊氏〈たかうじ〉も、新田義貞も立った。こうして鎌倉幕府は倒れた。「建武〈けんむ〉の中興〈ちゅうこう〉」という。

だが、これは失敗した。後醍醐天皇の恩賞がでたらめだった。公家や女官、僧侶に厚く、武家に薄かった。差別が露骨だった。改革の立役者たる正成にいたっては加増なしという無定見ぶり。武士たちは荒れた。しかし正成は耐えた。

足利尊氏が武士団を募り、叛旗〈はんき〉を翻〈ひるがえ〉した。正成は身を挺して、天皇を守った。九州に落ちた尊氏が再度攻め上がってくる。その兵力数十万。朝廷側の二〇倍。

正成は即座に和睦を進言する。帝は拒否する。さらにいったん京を離れ、比叡山に身を隠すよう献言する。これも拒絶される。そして命を受け出陣。湊川の戦いにおいて、ついに落命する。

出陣の途中、桜井の地で十一歳の嫡男正行〈まさつら〉に別れの言葉をかける。「生き残れ。帝への忠義を尽くせ。そしていつの日か朝敵を討ち取れ」と諭す。世に『桜井の訣別』という。

後醍醐帝に対する正成の補佐のありようは、絶対なる忠誠であった。後醍醐帝は狂っていた。だが正成にはそんなことはどうでもよかった。帝を守る、帝を立てることだけがおのれの義であった。

足利、新田をはじめ、ほとんどの人は帝を餌にして利を追い求めた。そこには志も正義も節操もなかった。

楠正成のみは天皇への絶対的忠誠を貫き通した。死してのち、なお志を残し伝えた。

一切の見返りを求めずに仕える。正成に学ぶ補佐役の姿である。