株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 399」   染谷和巳

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 強く賢くやさしい人に

「子供の権利擁護」は学校に行けない子がたくさんいる国では大事なことだが、日本では問題にならない。こども庁という行政機関は上辺を糊塗(こと)するだけで何も解決しない。子供を産む能力はあるが育てる能力のない男女が増えているのが根本問題で、親の意識を変革する教育が最優先である。


母親は自転車で先に行ったが

坂道。車は通れない。下って昇る舗装路。両側が壁で天井があり昼間でも電灯がついている。二人並ぶと対向者は二人並んで歩けない。

母親が自転車から幼稚園児らしい男の子を降ろし、何か言うと自転車に乗って坂を下った。加速して坂を昇り切り姿を消した。男の子は少し走ったが歩き始めた。

男の子の後を歩いていた荒田と友人は、母親がはるか向こうの信号で待っているのを見た。

「親が目を離したスキに誘拐されたらどうするんだ。向こうから来る自転車にぶつかって怪我をしたらどうするんだ」友人がぶつぶつ言った。荒田はその顔をまじまじと見た。

荒田は「変人」あるいは「原人(野蛮人)」と言われてきた。その言うことなすことが常識を外れているので、おもしろがって近づいてくる人は少なくなかった。打ち解けて話すようになると思想信条が全く反対であることが解る。

荒田は「原発を動かせ、増やせ」「自衛隊を正式な国軍にし、核を持ち、主権国家として周りの敵国に対等に物が言える国にせよ」「儲かるからと中国で商売するのは、敵に武器を売る死の商人と同類である」「男女平等、子供と大人も平等といった愚論を切り捨てよ」「パワハラに脅えてしつけと指導をやめるな」「子供の権利なんていうものは輿(みこし)に載せ囃(はや)し立てるものではない。子供の権利を認めすぎると強い子に育たない」と言う。

こうした考えに同調するのは会社の経営者くらいで、フツウの人は汚物を見るように嫌悪する。

友人の中には反対の立場で自説を述べ論争になる場合もある。最後はお互いに愛想をつかして疎遠になる。

こうした友人の一人がクラス会参加勧誘のため久しぶりに尋ねてきた。その友人を駅まで送って行く時の小さいできごとだった。

友人のつぶやきが〝常識〟なのだろうが荒田は同調できなかった。喉(のど)につかえるものがあった。

子供を乗せたままでは電動自転車でも坂を昇り切れない。母親と自転車と子供が並んで歩けば対向者が通れない。子供を先に歩かせれば時間がかかる。「狭い陰気な坂道である。自分が一気に坂を駆けあがり子供が追いかける形がいい」と母親は判断した。おそらく毎日こうしているのだろう。

「過保護」は以前は子供をだめにする間違った育て方とされたが、現在は政府も自治体も子供の権利法案の制定や子ども庁の創設を進め、過保護を肯定推奨している。もちろん世論は虐待やいじめの〝事件〟に心を痛めて「もっともっと子供を保護しなければ」という声が主流になっている。

子供を置き去りにして先に行ってしまう母親の行為を友人は非難したが、これが今の世論なのだろう。

荒田は母親の行為は子育てのうえで優れていると思った。道は公共の場である。狭い坂道を長い時間占領して迷惑をかけてはいけない。つねに子供中心、子供主役ではないのだ。「私は先に行くから後からついておいで」母親の行為は単に合理的なだけでなく、公共心が大事であることを子供に教えるうえで効果があると思った。

荒田は「やっぱり君もか」と友人の顔を見たが、自分の考えを述べて論争する気にはなれなかった。それをすれば友人は「変わったやつだ」と思うだけで考えは決して改めない。年月を経て荒田の言うとおりだったと解るのだが、それまでは荒田と話すと不愉快になるから会うのはよそうと距離を置く。過去に荒田はこうした経験を何度もしているので、自転車を降りて子供を待つ母親を眺めて黙っていた。


子供の言うことは一切聞くな

世の風潮に反する荒田と近い考えの人がいる。

水泳の池江璃花子選手など三人の子供を育てた母親池江美由紀が産経新聞に「池江流子育て」を連載している。その体験から、

「主導権を親が持つということは、子育てで最も大切なことです」と言っている。

子供のやりたいことや自由を優先し、親子間の主導権を子供に明け渡すような子育てでは、子供は親の話を受け入れず、親から学ぼうとしなくなってしまう。

子供が泣いて反抗するのに負けて子供の言いなりになったり、親が自分が言ったことを曲げたり引っ込めたりすれば、子供は自分は親を従わせることができると知り、主導権を発揮してわがままになり、学んで成長する機会をなくしてしまうという。

子供の権利尊重派の人は目をむいて反論するだろうが、この子育て論を支持する人も少なくない。

ある会社の応接間にのれんが飾られており、それに「次郎長十訓」が印刷されていた。その一つに「子供の言うことは一切聞くな」とあった。清水次郎長が本当に言った言葉かどうかは解らないし、荒田の記憶があいまいで文言はこの通りでないかもしれないが、子育ての名言だと感心した。

親が子供を強く賢くやさしい人間に育てようとするなら「あれ買って」「連れて行って」「これは食べたくない」などという言い分を受けいれてはならない。心を鬼にして「だめだ」と拒絶せよということである。

貧乏が人を鍛え育てるという。貧乏でなくても親が〝欠乏状態〟を作れば子供は我慢強い精神の持ち主、自分で考え工夫して〝不足の穴〟を埋める賢い人に成長する。

親が何でも言うことを聞いてくれて、子供が求めていなくても、子供を喜ばせようと親が子供のためにお金と時間を存分につかう。こうして何不足ない幼年期少年期を送ったお坊っちゃまお嬢ちゃまはたとえ学校の成績はよくても、仕事ができる人になれないし健全な家庭を築くことができない。

ある会社で社員五十人にこうした主旨の話をした。話を終えた後この会社の専務が荒田に言った。

「三十代四十代の父親母親に今の話は理解できませんよ。私は先生と同年輩だからよく解りますが、豊かな時代に育ってきた社員は反発するでしょうね」

「今、子育て中の親は、自分の子供が社会人になった時の姿を想像しながら育てているでしょうか。子供の言うことを何でも聞く子育て、叱らない子育てがどんな人間を作り出すか、先見性のある親ならこんな過保護は決してしませんよ。専務も社員の言うことをよく聞いてあげる少し過保護な方なのでは」。

専務は「ははは」と笑った。

潔癖が高じると人は弱くなる

荒田が子供の頃、近所に同じくらいの子供がウジャウジャいた。一家に平均三人はおり、〝ひとりっ子〟はめずらしかった。

そのひとりっ子が一人いた。まこと君ははだしや下駄の荒田たちと違ってズックに靴下、白いシャツを着て取り澄ましていた。母親がいつもそばにいて、悪童の誘いを断った。ガラス戸の中にまこと君の白い顔が見えても誰も「遊ぼう」と声を掛けなくなった。

現在はほとんどの子供がまこと君になっていると荒田は思う。

陽のあたる野原に寝そべって気持ちよさそうに笑っているコマーシャルの場面を見ると荒田はつい「ウソだ」と叫んでしまう。草むらに横たわるとすぐにアリや小虫が首や手足に寄ってくる。気持ち悪くて飛び起きてしまう、ニッコリ笑ってなんかいられない。

土は虫だけでなくばい菌の巣である。破傷風菌などのバクテリアが五万といる。空気中も同じである。人の目に見えない微細な菌が飛び交っている。

子供の権利、子供の自由を法律で守ろうとする時代である。この流れでいけば「有害なものから子供を遠ざけて保護する」法に行きつく。

人はばい菌やほこりの中で生きているのだから、それらを一切遮断することはできない。土にさわるな、海で泳ぐな、空気を吸うなということなので死ぬしか方法がないからである。

この結論には目をつぶって、子供を無菌のガラスの箱にとじ込めて育てようとしている。防毒マスクと防護服で身をかため、殺菌、消毒、除菌剤で身を清め、飲食物の成分をチェックし…。

こうして育った子供もいつか無菌培養のガラスの箱から下界に出なければならない。するとたちまちばい菌のエサになる。タバコの煙を吸っただけで卒倒して呼吸困難に陥る人になる。

現在進行中の「子ども庁」や「子どもの権利法」は誰の耳にも心地よく聞こえる。「いいことだ」と誰もが思う。

これが子供を一段と弱くし、子供を育てる主導権を放棄する無責任な親にするという結果が目に見えているが、十年後を予想して疑問を呈する人は少ない。大局観先見性が求められる。


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