染谷和巳の『経営管理講座』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「経営管理講座 398」 染谷和巳
しつけと指導の復権を
ゆとり教育が軟弱な甘えん坊を作り、勤勉を否定する「働き方改革」が怠け者を作り、パワハラ法がしつけと指導という大人の任務を消滅させた。世間受けを狙うポピュリズムの勢いはさらに増して今後は「子供の権利擁護機関」の設立だという。「教育先進国」を作った先人が天で泣いている。
子供の権利擁護機関は必要か
荒田が新聞記事を示して聞いた。「これ、わかります? よくわからないんですけど」
東京都が「子供の権利擁護機関」を設置するという記事である。東京都は四月から、子供の人権が侵害された場合に調査や勧告を行うコミッショナー(権利擁護機関の委員)制度を設置するという。学校や家庭で子供の権利が侵害されているという相談を受けた場合、コミッショナーが必要と認めた案件を区長や市長に勧告、指導する。コミッショナーは議員や役所の職員ではなく、第三者が任命される。一人ではなく委員会を構成して任務に当たる。従来の児童相談所では対処し切れない、人種差別に基づくいじめや虐待、学校での性犯罪被害などにあたる。
「要するに子供を人権侵害から救済する新しい委員会を作るということだ」
「はい、それはわかるんですが、なぜこういうものが必要なのかわからないんです」と荒田。
政府は「こども家庭庁」の創設にあたり、「こども基本法」の策定に向けて会合を開いているが、東京都はそれを先取りして四月から「コミッショナー」制度の設置を発表した。
このコミッショナーを国家公安委員会や原子力規制委員会などと同じ三条委員会にする案が出ている。三条委員会はその分野で強い権限を持ち政府や官僚さえ刃向かえない。たとえば自民党政権は原発再稼働を進めたいが、原子力規制委員会がつぎつぎと〝絶対安全〟の要望を出して、再稼働できないようにしている。子供の権利擁護委員会(コミッショナー)を新しい三条委員会の一つにすれば、政府や市町村の行政機関は、その勧告や指導にいやおうなく従わざるを得なくなる。
こうした問題があるので関係議員は議論を重ねなくてはならない状況に置かれている。
「さようでございますか。私がわからないのは、なぜこども家庭庁が、こども基本法という法律が必要なのかということなんです」と荒田は執拗に食い下がる。
源は一九九〇年発効の国連「子供の権利条約」にある。
全五十四条からなる条文の第十九条。
「あらゆる形態の身体的もしくは精神的な暴力、傷害もしくは虐待、放置もしくは怠慢な取扱い、不当な取り扱いまたは搾取(性的虐待を含む)からその児童を保護するためすべての適切な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる」。
こうした子供を保護救済するため国連は〝子供の権利委員会(会員十八人、会長大谷美紀子〟を作り、ユニセフや人権NPO団体などにサポートさせている。
この国連の委員会の日本版を作ろうとしていると考えればいい。
「質問の答になっていません。子供の権利って何なんですか。子供にどんな権利があるんですか」。
条約では飢えることなく「生きる権利」、適切な指導教育を受けて「育つ権利」、暴力や搾取から「守られる権利」、自分の意見を言い表現の自由が保障される「参加する権利」の四つを子供の権利としている。
荒田は言う。
育児放棄や虐待など一つひとつの事件を解決していっても「子供の権利問題」は解決しない。貧しい国や難民を出している荒んだ国は子供だけでなく大人も飢えている。確かに日本でも自分の子供を育てられない親が自由に子供を産んで虐待する事件が起きている。しかしこうした親は極少数で大多数は自分の子供をしっかり立派に育てている。
現在の日本には「こども家庭庁」も「こども基本法」もましてコミッショナー制度も一切いらないのではないか―。
寺子屋が日本を教育先進国に
日本が教育の先進国だと言ったが、これは国民の識字率(読み書きができる人の割合)を比べればわかる。
二百年前、文明国といわれたヨーロッパ諸国の識字率は二〇%前後で、文字は貴族など上流階級の独占物であった。これと比べ日本は江戸時代末期の同時代に識字率は八〇%を超えており、鹿児島や青森などの〝僻地〟は五〇%を切っていたが、こうした地域を除けば識字率は九〇%以上になり、世界に類を見ない高い水準であった。
この高い識字率は寺子屋という教育機関の存在に負うところが大きい。
寺子屋の始まりは室町時代。寺は多くの書を蔵しており僧侶は学問のある人と尊敬されていた。現在でもお坊さんは訪れた人に〝ありがたい〟お説教をたれる。当時もお坊さんは先生であり学問の師であった。農民や町人が教えを乞い、やがて子供に読み書きを教える学習塾になっていった。
この寺子屋は戦乱が収まり平和な時代が訪れ、商業が盛んになり、貨幣が流通し、商売に文書が欠かせなくなるにつれて急激に増加した。
一六五〇年の嘉永の頃から商業都市大阪の町人の子供に読み書きを教える寺子屋が増え始め、お寺ではない町家が教室になり、子供は定期的にそこへ通学した。
それから二百年後の一八五〇年頃、江戸時代末期には全国に一万五千以上の寺子屋があり、五百人の子供を生徒にしている大規模な寺子屋が百万都市の江戸だけでも四百軒以上あったそうである。
一八七二(明治五年)兵制、税制とともに維新の三大改革の一つ、「学制」(近代的学校制度を定めた教育法令)が発令されると、たちまち全国に六千の小学校が誕生した。
寺子屋の施設がそのまま小学校の校舎になり、寺子屋の師匠(大寺子屋には何十人もいた)を臨時の教員として形を整えることができたのである。もし全国一万五千の寺子屋がなかったら学校が体裁を整えるまでに長い時間と膨大な経費がかかったであろう。
明治天皇を頂点とする新政府ができると、二百五十万人の武士が黙って刀を置いた。刃向かわないばかりか、人材不足を補う県や府の役人、軍人、教師などに多くの武士がおさまった。この〝さむらい〟の潔い行動が、非力で未熟な新政府の指導者をどれほど救ったことか、どれほど仕事を進めやすくしてくれたか計り知れない。
これと同様に、普及していた寺子屋の指導者がその後の日本の教育行政にどれほど力と勇気を与えてくれたか計り知れない。
各藩の武士の子弟教育に設けられていた〝藩校〟がそのまま新しく大学に衣替えしたことも、教育重視の国策として成功したが、基礎となる小学校の設立が順調に行えたことがさらに大きい成功といえる。
だが当時はまだ子供の労働力としての価値が高く、特に地方の小学校就学率は低かった。一九〇〇(明治三十三年)、政府はそれまで市町村に任せていた授業料を全国一斉無料とし、なおかつ就学を義務付けた。この時、現在まで続く義務教育が誕生し、就学率は一気に九〇%以上にはね上がった。
その後も日本の教育重視は継続し、大東亜戦争に負けて焼け野原になった町や村に、小学校六年中学校三年の新教育制度が発令されると、小学校に間借りするケースが多かったが〝新制中学校〟が全国にたちまち三千校出現した。そして多くの復員兵が教師になった。国民は自分の住まいより先に子供の学校の設立に賛同協力した。
世界における日本の教育水準は高く、子供の学力は長らく世界一位の座を維持していた。
一九六五(昭和四十年)頃から日教組と文部省(現文科省)の官僚が〝子供の自由と個性尊重〟を旗印に「ゆとり教育」路線をとり始めた。授業時間を少なくし、教科書を薄くし、テスト回数を減らして〝子供に負担がかからない〟よう配慮した。
年々子供の学力は低下し、精神も軟弱になり、「ゆとり教育反対」の世論が勢いを増し、今から十年前ようやく小中学校は方針を転換し、以前の長い授業時間や厚い教科書にして現在に至っている。
天然資源を持たない日本の唯一の資源である〝人〟の力を伸ばすという旧来の道に戻った。これからも世界が範とする教育先進国であり続けるであろう。
と、胸をなでおろしていた矢先、「子供の人権擁護機関」新設という、ゆとり教育とは違う方向からの教育破壊が始まろうとしている―。