染谷和巳の『経営管理講座』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「経営管理講座 404」 染谷和巳
騒がせ屋の民主的小言
民主主義は自由、平等、個人尊重をスローガンとし、他の政治形態よりましだということになっているが、「民主的」なら何でもいい訳ではない。自由の行き過ぎ、平等の行き過ぎ、個人尊重の行き過ぎの弊害が際立っている。これを先導するのがツイッターなどのSNSとマスコミである。
NHKはニュース色付けする
七月末、「セミナー講師二十五人が全員男性はけしからん」というニュースがあった。
国土交通省が主催する行政機関の職員を対象にしたオンラインセミナー「都市を創生する公務員アーバニストスクール」の告知ポスターに批判が相次いだ。
「二十五人に一人も女性が入らないとはどういうことだろう」「ジェンダーバランスという意識がないのでしょうか」「いくら何でも偏りすぎ」「まちづくりに女性は関係ないということか」。
国交省の担当者は「ご意見を真摯に受けとめ今後の取組みに生かしてまいります」と釈明した。
何事に対しても欠点を突いて文句を言う人に対して主催者は真摯に対応した。荒田はこんなツイッターは無視すればいいのにと思った。このような不必要な低姿勢が〝騒がせ屋〟をつけあがらせるのだと思った。
こう思ってテレビを見ているとNHKのアナウンサーが言った。
「男女平等ということでは、世界経済フォーラムの『世界男女平等ランキング』によると、日本は一一六位、一四六ヵ国のうち下位にあります」
ニュースは事実を客観的に報道するものだが、NHKはニュースに〝色付け〟した。よくやることなどで驚きはしなかったが「またやっている」と苦笑した。
中国、ロシア、北朝鮮などの独裁国は報道統制をする。不利不都合な事件は国民の目に触れないよう隠蔽(いんぺい)する。テレビの画面をまっ黒にする。〝楯突く〟新聞雑誌は廃刊に追い込み、〝首謀者〟を逮捕して会社を潰す。国連の委員会が調査に来ると事実を隠し懐柔する。
隠しきれない時は「私はやっていない。あっちが悪い」と責任転嫁する。ウソを突き通し見え透いたウソにウソを重ね、傲岸不遜にまわりを非難する。
強硬に攻め続ければ牙を向く。その対立が先鋭化すると、現在進行中の国家間の経済制裁といった深刻な事態に至る。
NHKは「講師全員が男性は男女平等に反する。こんなことをしているから平等世界ランキングは低位のままなのだ」とツイッターの批判に同調し、国交省を非難している。これがニュースの色付けである。
日本は女性の総理大臣がまだいない。国会議員の女性比率が低い。企業の経営者や管理者の女性%も低い。
ランキングトップクラスの北欧三国などは女性の首相が当たり前だし議員の比率は五〇%に近い。それに比べて…という訳だ。
人口一千万人程度の国の首相が女性なら、人口一千二百万人の日本の東京の知事は女性である。議員の数が少ないのは女性の立候補者がまだ少ないからである。経営者管理者は男性と競争して勝つ女性がまだ少ないからである。
日本は武士が支配する封建時代もそれ以前も、家庭はもちろん社会全体が男性は男らしく、女性は女らしくという慣習に基づいて男女平等が貫かれていた。
男が女を足下に踏みにじるといった虐待の図はめったに見られなかった。男が上座で女がかしずく図は普通にあったが、働いて家長としての責任を果たす男を女が立てる図であり、男尊女卑や不平等を意味するものではなかった。
戦後、女性の参政権が法律で認められ、昭和二十一年四月の衆議院選挙で三十九人の女性国会議員が誕生した。当選した議員はみな「新日本婦人同盟」を主導する市川房枝の指導の元、〝男女平等〟を政策の柱にすることによって新しい女性票を総取りしたのだった。
この男女平等策は平成十一年(一九九九)の〝男女共同参画社会基本法〟となって結実し、完全男女平等が社会の常識になった。
以後、男女平等と差別反対が市民運動の旗印となり違反に目を光らせ糾弾するようになり、一般人もその影響を受けてSMSで「けしからん」と声をあげるようになった。
そのひとつがこの全講師男性〝事件〟である。
荒田は「世界ランキング」はほとんど無意味で、講師全員男性を批判する根拠としては説得力に欠けると思っている。それをNHKは「いけませんね」の材料に使った。
セミナー講師は専門分野と人物と教え方の巧拙によって選ばれる。それがたまたま二十五人全員男性になったのであり、国交省には女性排斥の意図は一切なかった。もしこの選択基準をクリアする女性がいれば、男性講師より優れた力を持つ女性がいれば二十五人全員女性でもいいのである。
この批判は昨年の森喜朗東京五輪組織委員会会長が〝女性蔑視発言〟で辞任した事件に似ている。あれは朝日新聞などが煽動(せんどう)したが、今回はNHKがさりげなく世論を誘導している。
日本の公共放送のNHKがこのような〝ニュース色付け〟を強めていけば、中国ロシアのマスメディア同様、国民を一色に染める全体主義の危険に陥りかねない。
威力を増すSNSの情報意見
ツイッターでいじめ殺された女性がいた。誹謗中傷の攻撃に耐え切れず自殺した。
今は「人殺し」「消えろ」「死ね」と汚い言葉による罵倒が自由に無制限にできる。それも名前や顔を出さず物陰から石つぶてを投げるのである。
以前も匿名だったが「人殺し」「出て行け」と攻撃する人は対面して直接言った。あるいは紙に書き、それを持参して人殺しの家の玄関に貼り付けた。時間と労力を費やした。「出て行け」と思うが大半の人は思うだけで、実行するのは百人に一人だった。
今は家で寝転がっていても「人殺し」「出て行け」は指先チョンチョンでできる。ヒマさえあれば誰でもチョンチョンできる。
「見なければいいのに」と荒田は思う。見て読んで無責任な言葉になぜ反応するのか荒田には理解できない。
荒田はパソコンのキーボードが操作できない。会社でパソコンが置いていないのは荒田の机だけである。携帯電話は去年まで折りたたみのガラケーだった。仕方なくスマホにしたが電話とメールに使うだけで、ツイッターやフェイスブックなどのSNSにはタッチしたことがない。
社員が「このように書かれています」と見せてくれたことがある。「ブラック研修」「人権が国を亡ぼすと書く頭のおかしい社員教育専門家」等々なかなか巧妙に会社と荒田を攻撃している。
また「この文章がどういう真意で書かれたのか問い合わせてみたが、長期で出張しているため話できることはないと言われてしまった」と、ちゃんと反論を聞く姿勢をみせたが相手が逃げたと自己正当化している。
荒田は地方出張をするが、長期出張はしたことがない。仕事が終ると観光や遊びは一切しないですぐ東京へ戻ってくる。社員は誰も電話を受けたことはないと言うし、受けたとしても、社員が「長期出張で会えません」と面会を断ることはあり得ない。
「これ二十五年前の文章だね」
「はい、検索するとこれが一番初めに出てくるよう更新し続けているんです」
「へえ、頑張るねえ」
当時社会党(現社民党)が野党第一党で勢力を誇っていたが、頼りにしていたソ連が崩壊し行き場を失った。そこで党は「これからは人権を武器に戦う」と宣言した。この社会主義から人権主義への方向転換に荒田は驚いた。その時書いた文章である。
誰かを貶(おとし)め、失墜させるためにSNSは効果的武器になることを荒田は初めて知った。
「こんなの見てるとだんだん自分が同じレベルになっていくから、もう見せてくれなくていいよ」と社員に言った。
SNSはマスコミまで支配しつつある。毎日パソコンやスマホでこんな〝意見〟につき合っていれば頭がおかしくなる。
荒田のような石器時代の人間はスマホを使いこなす能力がないので、取り残された門外漢として殺されずにすんでいる。
民主的が全て良い訳ではない
親父の小言に「子の言うこと八九きくな」がある。これと反対の戒めに「子供しかるな来た道だ」がある。これが民主的小言である。
親の言うことを聞かないで叱られた。叩かれた。泣いた。悲しかった。自分が子供だった頃を思い出してみろ。子供の人権を尊重して、叱らないで育てよ、そうすれば子供はのびのびと育つ。
親もマスコミも匿名のツイッターもこれに「いいね」と答える。かつての日本人の優れた価値観は消滅しつつある。代って快い民主的価値観が忍び込み、私たちの心を汚ない色に染めつつある。
中小企業経営者の踏ん張り時
家での夕食。会話はない。家族の顔も見ない。皆スマホを見ている。子は親ではなくスマホの言うことを聞く。
その子が社会人になる。その学生にとって先生はスマホ、指導者も上司もスマホである。悩みはスマホに聞けば解決してくれる、不満はスマホにぶつければ消える。
「社員研修? 挨拶訓練? 言語明瞭に話す? そんな研修なぜ必要なんですか。私は毎日スマホと会話している。仕事の進め方も人間関係のあり方も何でも教えてくれる、解らないことがすぐ解るし、できないことがすぐできるようになる。古くさい研修なんか何の意味もありません」
入社した〝優秀な学生〟の弁である。
大企業は希望にこたえるため、自由でのびのび楽しく勤められる環境を整える。上司は優秀な人材に逃げられたら困るので、だらしない姿勢や、聞き取れない小さい声すら注意しない。
中小企業がこれを真似る。「天下の〇〇がしているんだから間違いあるまい」と出社退社時間を自由にし、在宅勤務を増やし副業を認める。
中小企業に来る優秀でない学生も、優秀な学生のおすそ分けにあずかれるわけだ。
思い出してほしい。バブル期採用の社員がいくつになっても指導力がなく使いものにならなくて頭をかかえたことを。
「楽しくて個性が出せて社員の要望に柔軟にこたえられる会社なら入ってもいいですよ」なんていう学生はこっちからお断りすべし。