株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 410」   染谷和巳

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私事よりも仕事を優先

入社にあたって社員は待遇条件を気にする。給料と手当て、勤務時間、休日、有給休暇等。生活苦の中にありながら荒田はこうしたことを一切気にしなかった。面接で質問もしなかった。〝いい仕事をして認められる〟。この第一関門を通過しなければ、待遇を言う権利はないと思っていた。


社長が倒れ専務が辞めた会社

「縁は異なもの」というが、この会社、社員教育研究所は、荒田が新卒で入社試験を受けて不採用になり翌年倒産した日本ソノシートの残党が作った教材会社のそのまた残党五人が作った。

もし荒田が日本ソノシートの社員になっていたら残党の残党のひとりになっていたかもしれない。社長と共に会社設立に参加していたかもしれない。

会社は荒田が入社する二年前にできた。社長が営業マン向け教材を独力で書きあげ、ナレーター中村正が説得力ある声で読むテープ教材である。

ちょうど当時の池田勇人(はやと)総理大臣の〝所得倍増〟の政策が達成され、社会が好景気に沸いていた時で〝倍増〟という言葉が流行語になっており、「売上倍増への挑戦」というネーミングがお客様に歓迎された。

営業マンがカセットテープレコーダーを訪問先に持ち込みテープを聴かせて売った。一セット四万五千円の商品が順調に売れた。

お客の会社は一セットしか購入してくれない。つぎの商品を出さなければならない。

「朝の七分間」という朝礼用テープを出す予定だが、いい原稿ができず完成の目処がついていない。営業から「いつできるんですか」とせかされ、社長はあせっていた。

教材制作の研究室には社長の下に二人部員がいた。一人は共産党員で一人は新興宗教の幹部。いい文章が書けない。二人とも五時になるとさっさと帰る。

社長は研究室に荒田ともうひとりを採用して、だめな二人を営業部に配置換えした。その後女性二人を入れて研究室は五人体制になった。

荒田の力がずば抜けていた。社長は新人荒田の原稿とアイディアをつぎつぎ採用して三ヵ月で「朝の七分間」を完成させた。新商品のパンフレットは荒田が一人で作った。ダイレクトメールの反応がよく、営業は「いいパンフレットを作ってくれた」と荒田に感謝した。

研究室には大卒の女三人、男一人、社会経験豊富な四十代の男二人が入り十人の〝大所帯〟になった。荒田は研究主任。

もうひとりの同期入社の男は関西の国立大学出で荒田と同年齢だったが、荒田に敵わないと思ったのだろう、半年で辞めた。

その後この男は学習塾をやるからと荒田を誘った。父親が高校の校長だったので信用があるから成功すると。荒田は断った。

荒田は昭和四十四年一月入社だが翌四十五年十一月事件が起きた。

新橋の研究室の地下の喫茶店でひとりで昼食をとっていた社長が倒れた。

テレビで三島由紀夫割腹自殺のニュースを見た後だった。繊細な神経の持ち主の社長にはショックだったのだろう。幸い隣が慈恵医大病院で、呼ばれた社員二人にかつがれて運び込まれた。

一時的な発作ではなかった。社長は自宅療養になり会社に出て来なくなった。

一緒に創業した取締役専務が社長を見限って営業の主力の課長たち三人を連れて辞めた。辞めてすぐ同じ教材会社を設立。同じテープ教材を作って活動を始めた。荒田はその教材を見た。魅力のないデキの悪い商品である。「営業力があってもこれは売れない」と思った。案の定、この会社は二年持たず解散し、元専務や課長はどこかへ消えた。

踏んだり蹴ったりとはこういうことか。労働組合ができた。元研究室にいた共産党員と新興宗教幹部の二人が主謀者になり、団体交渉の席に社長を引っ張り出して罵倒した。

荒田も組合員の席にいたが、油汗をかいて答弁する社長が気の毒でならなかった。

三年前荒田に「月刊レジャー」を任せて去った佐藤編集長から「仕事を手伝ってくれ」と言われた。

あの後季刊の豪帯住宅雑誌を創刊して成功した。編集員を十人も採用したが一人も物にならない。みな辞めてしまう。荒田に来てほしいと言う。荒田は断った。

週二、三回夜だけでも仕事をしてくれと言う。自分たちは高級マンションに移って、住んでいたアパートが空いているからただで住んでいいと言う。家賃なし。

荒田は亀有のアパートを引き払い麻布十番のアオイスタジオのまん前のアパートに引っ越した。新橋の会社帰りに皇族が住んでいるという六本木の自慢のマンションへ行って編集のアルバイトをした。アルバイト料は月二万円程。

家計は少し明るくなり、田舎の妻の母が出てきて「よかったね」と荒田をねぎらった。この恵まれた状況が半年間続いた。


仕事集中の時は雑念が消える

社長は学生時代のアルバイト仲間を常務に、奥さんの兄を経理部長に招き入れた。二人は会社を支えるポストにいたが、社長が病気になり、専務が逃げ出して、どうなるか解らない会社に一生を託す気はないようで、心ここにあらずといった仕事ぶりであった。

目下名実ともにナンバー2は荒田である。

新教材が続々誕生した。「燃えるセールス」女子社員向けの「新しさへの出発」「これがサービスだ」。表紙には〝作・荒田新〟とあった。社長が自宅で書いた「殴り込みセールス」は近年なくなった声優小林清志のナレーションの力もあり大ヒットした。

荒田は報告や打ち合わせで社長宅によく呼ばれたが、それが頻繁になり、ついには朝社長宅に出社して夕方までそこで仕事をするようになった。

大作「これが指導者だ」の執筆のためである。

荒田は畳の部屋の窓際のちゃぶ台で原稿を書いた。社長は別室におり、夕方「一杯やるか」と声をかける。奥さんが運んできて爛をした酒を二人で飲んだ。

社長宅は東急梅屋敷の駅のそばにあり、たえず踏切りの「カンカン」の音が聞こえた。社長の晩酌につき合って家に帰り着く時刻は夜の十一時を過ぎていた。

筆が進まない日が続いた。社長は「気分転換に場所を変えたら」と言った。新橋の研究室に戻れとは言わなかった。研究室には若い女子社員が四人おり荒田が原稿用紙に集中しないのが解っていたからである。

社長の自宅の梅屋敷から三つ目の立合川の駅の近くの旅館に詰めることになった。素泊まり千二百円の商人宿である。風呂は共同。六畳の部屋に押入れはなく、ふとんとお膳が置いてある。刑務所に入ったことはないが、きっとこの部屋に似ているだろうと思った。

集中して仕事ができた。

ある日の夕方、経理の永島秋子が突然やってきた。

荒田がここに籠っていることはみな知っている。宿代など小口の精算をしにきたので伝票に記入してくれと言う。

後で一括して精算するつもりだった。せっかく来てくれたので面倒だったが伝票を何枚も記入した。

精算が済んでも永島は帰らない。二つにたたんだふとんの横で会社の出来事を話したり何を書いているのか荒田に聞いたりした。

頼みもしないのに男が一人でいる部屋に来て、用が済んでも帰らないのはおかしい…。

「おかしい」とその時は思わなかった。

以前、昼休みによく違う階から研究室に降りてきた。荒田と話すためである。ある時永島は「私、頑固な大工の頭領みたいな人が好きなの」と言って荒田の顔を覗き込んだ。荒田のような一本気の男がいいという告白である。荒田は「ふーん、そう」と聞き流した。

永島は二十三歳。新しい常務が連れてきた。常務の縁戚だという。少したれ目の色白の秋田美人。ねじりはちまきで脇目もふらず仕事をする大工の頭領に憧れている?。家族持ちの荒田は「ふーん、そう」と答えるしかない。

おかしいと思ったのはずっと後のことである。その時はもじもじ居座っている永島の気持ちが解らなかった。「さあ、もう、そろそろ」とうながして帰ってもらった。この時荒田はこれほど仕事に集中していたのである。

三泊四日の一人合宿は成果があがった。五十枚の原稿を社長に提出した。ちょうど常務が来ていて、社長は原稿を読ませた。

常務は「いいできです。これならすぐ使えます」と感想を述べた。

社長は「まだだね、もう一度書き直して」と言った。

荒田は、「常務は文章を評価する能力がない。社長の目は確かである。社長から合格の声をもらうまでやらなければ」と決意した。

昭和四十八年十月「これが指導者だ」完成。丸一年かかった。テキストの表紙には作者として社長と荒田の名があった。一セット十二万五千円。

この新製品を一般社員向けの四?五万円の教材を扱っている今の営業に預けたら埋没してしまう。

社長は別会社を作ってこの教材を専属で売らせようと考えた。


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