株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 413」   染谷和巳

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有能でもNo2失格の男

荒田の欠点は痛みに鈍感な(我慢強すぎる)こと、口が悪い(思いやりがない)ことともう一つ、思ったら即実行することである。社長に報告して許可を得ればいいのに独断専行し、後で社長が知って叱る。こんなことが何度もあり、この〝身から出た錆〟でついに会社を辞めるハメに到った。


年収一千万円を手にするまで

おどろおどろしい「地獄の特訓」の半5の広告を毎週のように日本経済新聞に載せた。

朝日新聞の募集欄に管理者養成学校の講師候補の募集広告を毎週のように載せた。佐川急便の運転手募集の五〇行広告と同様に目立っていた。

静岡県の富士宮市の外れに五十人宿泊できる私設の廃校があり、荒田が〝発見〟し交渉して借り受けた。一回の生徒が百人になったので一人部屋に二人泊めた。百人を超えると近くにある家主の豪壮な別宅に十人二十人泊めた。

講師候補の面接は荒田がした。二十代から四十代までの男性。まるで新撰組の隊士募集さながら、あぶれ浪人が集まってきた。学校教師や塾講師が何人もいた。前科はつかないが〝問題〟を起こしてクビになった面々である。荒田は〝即戦力〟を期待して採用したが、長く残った者はひとりもいない。

百人面接して十人採用。訓練教育して三ヵ月後助手として現場に出せるまで残るのが五人。自分より若い講師に追いたてられていやになって辞めるのが二人。月三人、一年で三十人の助手ができる。うち三年後、一班十五名の生徒を担当できる講師が務まるようになるのは三人。

講師助手が足りないので営業部の社員が駆り出され、若い女性社員もみな富士宮勤務になった。荒田はじめ主な社員は富士宮のマンションやアパートに寝泊まりし、新人の助手は単身赴任で、借りた一軒家の大部屋で雑魚寝した。建設土木の飯場ほどではないにしろ、しだいに人心は荒み、町の居酒屋はうるおったが、男女の風紀は乱れた。

〝発展途上の過渡期〟であった。

丸二年が経ち講師助手の数が揃い質も向上し、採用面接と指導をする講師ができて、荒田はその任を解かれ古巣の営業に戻った。

役職も常務取締役に昇進。部長になったのが三十三歳で今四十三歳。部下や妻から「万年部長」とからかわれてきたのがようやく解消した。

思い起こせばドタバタ活劇の二十年間であった。

電信柱の穴掘り人夫を五ヵ月。その後勤めた雑誌社はすべて潰れて、今は跡形もない。だが毛色の違う雑誌社を転々とするうちに荒田は文章力と編集の腕、それと浅いが幅広い知識を身につけた。それが後々役に立った。

給料をもらえないことが何度かあった。それで苦労したのは荒田ではなく妻のほうである。子供を医者に連れて行くお金がなくて質屋に行ったり、食べ物がなくて乾麺の切れ端をお湯で溶いで一食分にしたりしていた。

実は社員教育研究所に入社してすぐ荒田は実家を追い出された。

それまでは実家の二階六畳間に親子四人でいた。同じ二階にいる四つ下六つ下の荒田の弟妹が親に「子供がうるさくて眠れない」と訴えた。弟妹は荒田の妻との仲も悪かった。母親が「占いのおばさんに新(しん)(荒田の名前)はこっちの方角に引っ越したほうがいいと言われた」と言い、荒田はそれに従って隣町の亀有のアパートに引っ越した。貧乏が加速した。

我慢強くて鈍感な荒田は何がどう変わっても平気だったが、田舎出の人の目を気にする妻は神経をすり減らし、惨めな思いに耐えていたことだろう。

三十代半ばからまずまずの生活ができるようになり、今やっと年収一千万円になり、三人の子を私立高に入れることができた。


お灸が効き過ぎ荒田は辞めた

浜松町に戻った荒田は営業部隊作りを始めた。

カセットテープ教材の販売は女性パート社員による無料試聴制度で成功した。訓練という新製品はDMや電話だけでは売れない。

営業課長や若い男性営業マンは皆富士宮に出向している。

講師の募集同様、また中途採用の社員募集。男女十人の中年営業部隊ができた。訓練のお客様を開拓する訪問営業が専門である。

新人営業マンにとって、十三日間の地獄の訓練参加が何よりの新人教育になった。

交通費宿泊費のかかる遠隔地は荒田が回った。東京と近辺を営業マンが回る。

教材販売は電話とDMと配送で済んだが、生徒募集は直接対面の営業マンがいる。何度も訪問して人間関係を作る旧来のスタイルが求められる。九州から北海道まで主要都市に七つの営業所を開設、地元で社員を採用して活動を始めた。小さい所は二人、大きい所は十人の拠点である。

昭和五十四年、訓練を始めた当初の社員数は七〇人。昭和六十年には総勢二八〇人。社員数だけでなくもちろん売上げも七億が三十億円に伸びていた。

ビデオテープの教材を作った。「ビジネス最前線」はテレビドラマ「特捜最前線」の二谷英明、本郷功次郎、横光克彦などをキャストにし、東映の監督がメガホンをとって本格的映画にした。

原作は社長の初期の売れなかったカセットテープ教材。それを畠山裕介がシナリオ化して演出を務め、荒田が制作と販売の責任者のプロデューサー的役割を果たした。

撮影は主に会社の事務所で行われた。会社は浜松町が手狭になり、神宮前のビルに移転していた。姉妹会社三社が壁で仕切って使用。七十人が同居。電話をかけるなど仕事をしている社員がそのまま映像に入ったりしていた。

主題歌「人は叱られて育つ」は荒田が作詞。

嵐が去った後の

オフィスの窓に

欅(けやき)の若葉が まぶしい

で始まる歌である。

荒田が会社を辞めた後、パンフレットはもちろん、カセット教材のパッケージやテキストに入っていた荒田の名前は一切消し去られ、過去に荒田という人間は会社に存在しなかったとされた。おそらく作詞荒田新も削り取られていることだろう。

昭和六十一年に制作開始、年末に完成し六十二年に発売。

荒田は映画館の大スクリーンに写す試写会を行った。会場は企業の担当者と多くの報道記者で埋まった。四部のうち一部「遅れた報告」を三十数分放映。デモテープに交通費を備えて三十余名の記者に贈呈。有名俳優の出演なので新聞、雑誌、テレビが一斉に報じてくれた。一ヵ月で売上げは一億円を超え、二ヵ月目も五千万。制作費総計四千万円に否定的な顔をしていた幹部連中が、たちまち荒田に笑顔でうなずいたものだ。

新しい仕事、難しい仕事は皆荒田に回ってきた。その大半を荒田はそつなくこなした。

荒田の腹が出て、言動は一段と自信過剰になり組織にはまらなくなった。元々独走型で報告嫌いの欠点を社長は許さなかった。いや、社長は荒田だけは大目に見た。他の社員は『報告』でことごとくクビになった。訓練学校の主な講師、榊原、寺松、畠山(後に復帰)や他の幹部は社長の不興を被って辞めた。荒田はこれまでの実績から、社長が我慢していたのであった。

新宿駅南口の近くに〝社長室〟が設けられた。社長はようやく都心まで出て来られるようになった。そこで毎週一回地方営業所所長も含めて幹部会議が行われた。社長が状況を知るのが目的である。

昭和六十二年秋、幹部会で荒田は勝手な値引き販売の件で社長に詰問された。許可なく大幅値引きしたのは事実である。ねちねちと責め続ける社長と幹部全員の白眼視に愛想をつかし、予想して胸に用意しておいた辞表を渡した。社長の顔が青ざめた。「しまった、お灸が効き過ぎた」という顔だった。


退社後敵意を持たれない工夫

昭和六十三年三月末、退社が正式に認められた。

四月に社内送別式。百人の前で挨拶。例の大工の棟梁のような人が好きだと言った本社経理の秋田美人が目を赤くして大きい花束を贈ってくれた。まだ独身のその人はその後一年たらずで退社した。

夜の送別会には社長も出席。作曲の元橋専務がビジネス最前線の主題歌「人は叱られて育つ」を歌った。社長が「こんないい歌だったんだね」と荒田に言った。

映画では横光克彦が歌った。「下手だからいやだ」と断るのを荒田が無理に頼んで歌ってもらった。確かにうまくなかった。社長はそれを聴いて作詞も作曲もダメな歌と思っていた。その評価を専務の歌唱力が変えた。

五月、一泊二日の伊豆稲取での幹部会に誘われた。もう辞めた人間がなぜと思ったが、まだ退職金をもらっていないので行った。幹部は不審な顔をしていた。社長が荒田の翻意を願って呼んだのだ。

翌朝早く荒田は一人ホテルを出て釣船に乗った。客は荒田一人。形のいいイサキを二十匹釣って東京へ戻った。


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