染谷和巳の『経営管理講座』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「経営管理講座 414」 染谷和巳
悪運強し四七歳失業者
部下の密告で荒田の独走が露見した。「悪うございました」と謝れば社長は許した。降格、配置転換の処分で済んだ。荒田は謝らず辞表を出した。〝計画的犯行〟ではない。たまたまそうなった。これ以上ここにいれば精神が腐ると思った。地位収入より荒田は贅沢にも精神の健康を選んだ。
我慢と忍耐は似て非なるもの
五十五歳定年の会社が多い頃である。四十七歳で失業した荒田にいい就職先はなかった。
月給百万円だった。その半分の五十万円出してくれるところもない。妻は将来の生活に脅えて「どうするのよ」となじった。
四月に末っ子の次男が私大に入学。入学金百万円。それくらい貯金しているだろうに妻は出さない。「あなた自分で何とかしてよ」と押しつける。
当時銀行は住宅ローン、教育ローンを看板商品にしていた。申し込めば九分九厘借りられた。
みずほ銀行金町支店に百万円の教育ローンを申し込んだ。
融資できないと言われた。失業中だからではなく、十五年前に作った通帳が生きているのでダメと。その通帳はみずほの社員が浜松町の会社に来て「財形貯蓄ができるので得だ」と頼むので二十人全員作ったもので、使ったことがないし、あることも忘れていた。「ではそれを解約すればいい」と言うと「できない」と言う。
困った。銀行は国民金融公庫のローンの出先機関なので、北千住の公庫に出向いた。何の問題もなく百万円の教育ローンを組んでくれた。
親元がOKなのに出先窓口がノーとはどういうことか。以来荒田はみずほ銀行を軽蔑している。
人生の目標、夢は? と聞かれても荒田は答えられない。宇宙旅行も酒池肉林も望まない。「人は願うことによって叶えられる」と人生論者は言うが、願う気にならないのだから目標を達成できるわけがない。
しいてあげれば本屋の文庫本の棚に自分の本が並んでいること。長く読みつがれる古典や名作の中に自分の一冊が入っていたらいいなあと思う。これが夢といえば夢だろう。
夢は叶った。
平成十六年(二〇〇四)、「上司が鬼とならねば部下は動かず」が新潮文庫になった。
出版元のプレジデント社の天野編集長が昵懇(じっこん)の新潮文庫の編集者に文庫化を持ちかけてくれた。
初版四万部。全国の書店の文庫の棚に並んだ。半年後編集者から「重版はしません。うちは文庫の版権を放棄しますので今後はどこから出してもかまいません」と言われた。本は文庫の棚から消えていった。夢は半分叶わなかった。
話を元に戻す。
四十七歳の失業者。就職先がない。燃える事業欲もない。商売を始める元手はない…。
こんな時に欠点の〝鈍感〟が幸いした。
「我慢強い」といえば聞こえはいいが、危機が迫っているのに「大丈夫だあ」「何とかなる」と手を打たずに傍観する。死ぬかもしれないのにぼおっとしている。鈍感なのである。
我慢と忍耐は似ている。同じような使い方をする。だが「我慢強い」と「忍耐力がある」は全く違う意味の言葉である。
我慢強いは鈍感と同義だが、忍耐は困難から逃げないこと。勝負を投げないことである。
忍耐力は責任感に根ざしている。困難や敵の攻撃にじっと耐えて責任を果たす。もし果たせなかったとしても前進はした。
たとえば指導者は人を育てる責任がある。上司は部下を、教師は生徒を、親は子を。
長所を伸ばすのも育てるだが、欠点を直すのも育てるである。
名前を呼んでも「はいっ」と返事をしない部下がいる。我慢強い人は「こいつはだめだ」と切り捨てる。いつか自分で気づくだろう、自分で直すだろうと不愉快な現実を我慢する。
忍耐力のある人は「返事をしなさい」と注意する。嫌われても反抗されても何度でも注意する。堪忍袋の緒が切れて怒鳴ることはあるが、育てる責任を果たそうとする行為は一本筋が通っている。
我慢強いだけの人は人を育てられない。忍耐力のある人が優れた指導者になる。忍耐力は指導者にとって大事な条件である。
我慢は鈍感で醜い。忍耐はやさしく厳しく美しい。
退職金八百万円が開業資金に
荒田は鈍感な醜い精神の持ち主である。
「どうするのよ」と妻。
「何とかなるさ。俺は運がいい。天が助けてくれるさ」と荒田。
「あんたは〝ものぐさ太郎〟か、ばか」と妻。
家で毎日妻と口げんかしていると気分が滅入る。通勤しなくては。
大崎駅徒歩二分のアパートを借りた。六畳と三畳のダイニングの1DK家賃二万円。木造二階建ての二〇一号室。一階はダンボールの裁断工場でドスンドスンと機械の音が響く。
そこへ小堀裕明が転がり込んできた。給料なし。横浜に大きいマンションを持つ旧家の後継ぎでお金の心配はない。「じゃ、社員教育のマンガを描け、この本参考に」と荒田は「管理者の人間学」を渡した。小堀は毎日出勤し掃除、お茶汲みをして「こぼりくんのわかったあ!!」を描いた。このマンガは翌年商品化して二十年間売れ続けた。
妻が〝水がうまくなる石〟をもらってきた。
この石、医王石(いおうせき)は富山県の医王山でとれる。緑青色の固いきれいな石でオハジキ大に粉砕したものを一つかみペットボトルに入れる。入れておくだけで悪水が良水に変わる。しかも何十年も使える。
荒田はこれを売ろうと決めた。五〇?のセメント袋を二袋一万円で仕入れた。五〇〇gの小袋詰め一袋千円。二百袋。全部売れれば二十万円。まずまずの商売である。
四月の送別式の挨拶で荒田は医王石の紹介をした。最後に「一袋千円です。これを買わない人は手を挙げてください」と言った。百人が笑った。誰も手を挙げなかった。「売り上げ締めて十万円。これが初仕事です。ありがとうございます」と締めくくった。
使ってみて効果があったのだろう。社員から五袋、十袋の追加注文があった。親戚、知人に配るという。薬局に卸し値一袋五百円で置いてもらった。一袋、二袋売れた。
ダイレクトメール用のタブロイド版の新聞を作った。小堀がマンガで効用を説明。化学工場かと思われるぶきみな水道局の外観写真を載せて〝水の危険〟を知らせた。
この新聞のゲラを持って前の会社に行き専務に見せた。「DM打ちたいが印刷費、郵送費がない。退職金をあてにしています」と頭を下げた。
この時すでに医王石の販売はやめると決めていた。
二回目に仕入れた石が質が悪い。石炭でいえば初回の石は硬くてつやのある無煙炭で、二回目はもろく柔らかい瀝青炭や褐炭のようである。ペットボトルに入れておくと砂が溶け出して小さくなってしまう。
卸し先に問い合わせると「掘り尽くして良質の石はもうない」と言う。
宝石のサファイアのような石が入った飲料水ならいいが、砂やどろが沈んでいる水は気分がよくない。これは売れない。売らないと決めた。もちろんこれは言わずに退職金をせびった。
専務が社長に荒田の状況を報告した。困っている荒田を応援する意味もあったろう。社長は八百万円の退職金を出してくれた。
荒田はこれを資本金にして六月十日、㈱アイウィルを設立した。
荒田を育てたのは前の社長だ
その後のことは「ナンバー2になれる人なれない人」(髙木書房)の二十三章「エピローグ」に簡単にまとめてある。よってこれで荒田の身上話は終る。
なお退職金は信用金庫の分割小切手だった。荒田は高額の手数料を払ってそれを割って現金にした。
カンのいい社長は荒田が同じ仕事を始めるだろうと思った。猜疑心の強い社長は荒田のアパート事務所付近の電柱の陰に部長を刑事のように張り込ませた。印刷会社、DM屋、広告代理店それに声優の中村正にまで「荒田の会社と取引きするな」と警告した。
九月に録音教材「新帝王学」完成。ナレーターは中村正。中村は「私はあの会社の社員ではない。仕事をするかしないかは自分で決める。あそこの仕事はするななんてよくも言ったものだ。まともじゃない」と言っていた。
全国に五千通「荒田は制作のノウハウや顧客名簿など会社の財産を盗んだ犯罪者なのでつき合わないように」という手紙が送られた。
こうした攻撃に荒田は動じなかった。反論もしなかった。嵐をそよ風に感じる〝鈍感〟が何事もないかのごとくにした。
八十歳で前の会社の社長は死んだ。創業者でありながら会社を追い出され、妻子に縁を切られ晩年は不遇だった。
七十五歳の荒田は畠山と一緒に〝偲ぶ会〟に出席した。榊原や吉見など旧社員も何人か来ていた。