株式会社 アイウィル

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染谷和巳の『経営管理講座』

人材育成の新聞『ヤアーッ』より

「経営管理講座 425」   染谷和巳

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作文に特化した授業を

第三期ゆるみの時代に危機感を覚え、先号で「精神強化と意識改革」を記したが、今回は「読み書きが大事」を提唱する。研修を始めた三十五年前、お客様に〝研修の意義と目的〟を説明した時に似ている。いや、そっくりである。学校教育がしっかりしないならまたアイウィル研修の出番だ。


デジタル人材育成が孕(はら)む危険

四月十八日に小学六年生と中学三年生対象の全国学力テスト(二〇二万人参加)が行われた。

テストは国語と算数(数学)。

思考力、判断力、表現力の育成を重点目標にする〝新学習指導要領〟を踏まえた(と主催者が言う)問題が出されている。

小学六年国語の問題は、遠く離れた学校の生徒がお互いの学校の特長をメールのやりとりで語り合い、その会話の意味や関連性を問うもの。また童話の長文に十ヵ所ほど線を引いて、やはり意味や関連性を問うものだった。

中学三年生国語は会話文や論文の一部を示して、内容を正しく理解しているかを問うもので、小学六年の問題と相似形である。

問題作成は工夫がこらされているが、頭に記憶した知識をつかって正解を当てるクイズ式テストであることに変わりない。

このテストで高得点の生徒は判断力(理解力)に長じていることは認められるが、思考力と表現力が伸びているかどうかは解らない。

小学六年も中学三年も国語の後半に、表現力を問う短い文章の記述問題があった。この問題の平均正答率は他と比べて低い。これは毎年同じ傾向にあり、文部科学省が求める〝学力〟の育成はうまくいっているとはいえない。

テストの結果は七月末に発表される。この結果をもとに先生は教室でどのような授業に力を入れればいいかを考え工夫改善をしていくことになる。

猪木武徳が言う(産経・正論四月十二日)。

「大量の知識や情報過多になりがちなわれわれは、即答智恵ばかりを求めていることに気づく。スマートフォンを取りだせば、求める知識も一瞬にして得られるのだ」。

即答智恵とはクイズに強い脳の持ち主のことで「頭がいい」と認められている。だがこうした人が思考力や表現力が優れているとは限らない。

言えるのはこうした人はデジタル機器の使用に長けており、知識を増やし続けることに成功している。学校教育はこうした人を是として後押ししている。現在小中学生の大半が授業でタブレットを使っている。

文部科学省は「デジタル人材の育成」を教育の一本の柱にしている。この柱と「思考力・判断力・表現力の育成」は両立するか。対立するのではないか。その答はもうすぐ出る。

猪木は「(デジタル機器の多用が)集中力を阻害し、すぐに答えの得られない問題に向き合う力を弱め、学業成績も悪化させると推測できる」と警告している。

かつて藤原正彦が、小学校の英語授業導入に猛反対して「学校教育は一に国語、二に国語、三、四がなくて五が算数(数学)。これ以上国語の授業時間を減らせば日本人の〝品格〟は下がる一方だ」と書いていた。

今度はデジタル授業の導入である。国語の時間をさらに減らして小学低学年から子供を液晶画面に釘付けにするのは、〝世界に負けないデジタル人材の育成の出発点〟ではあるが、プラスよりマイナス面の方が大きいのではないか。

パソコンやスマートフォンの画面を絶対視する人、その情報に依存する信じやすくだまされやすい人、それを疑わない人、ゲーム脳、クイズ脳の即答智恵の人を学校が社会に送り出している。思考力に欠ける薄っぺらな人間が会社や社会の中核になりつつある。

国語重視を説く識者、教育者の声は長年に亘って無責任な世論に屈してきた。


作文こそ学校の国語教育の要(かなめ

京都の小学校の元校長で現在も請われて学校の〝講師〟をしているT氏から手紙。新聞の切り抜きが同封してあった。

切り抜きは「京都市立小学校、教員・児童の負担軽減」の見出しで、文章のチェックに多大な労力がかかるので、卒業アルバムの作文をやめたというニュースである。

T氏の手紙。

「いつも『月刊ヤアーッ』の経営管理講座をなるほどとうなずきながら読ませていただいております。

さて、同封の新聞ですが、その理由を見て驚くというより、あきれてしまいました。作文の廃止には教員の働き方改革を進めようとする動きが背景にあると書かれていました。

まず、卒業記念文集の教育的意義を何ら吟味することなく、大人の都合で取りやめたことに驚きました。

つぎに、作文の重要性を全く認識していないことに驚きました。

思考力、想像力、人格形成に不可欠な作文が、手間暇かかる無駄なものとして扱われています。

実際、最近学校で作文の時間は極端に減っています。

作文は教員の丹念なチェックと指導によって伸びる能力です。手間暇かけてこそ伸びる能力です。

とりとめのないことを書きました。今後のご活躍を祈念します」

手紙は一部省略したが趣旨は右のとおりである。

作文指導は誤字脱字や文法上の誤りのチェックと文章の構成や内容に対するアドバイスなどに時間とエネルギーを要し、確かに教員の負担は軽くない。

アイウィルの研修ではレポートに赤字を入れて返却する。それを見て社長や研修生は「ここまでやってくれるのか」と感激する。大変な手間暇をかけているのがわかるからである。

研修には講師のほかに専門の添削員がいる。前歴は教師や編集者などが多い。文章の読み書きを仕事にしてきた人である。主に女性だが、この添削員の働きがなければ研修は成立しない。添削員のおかげで、講師は添削されてまっ赤になったレポートを最終チェックして最終コメントを入れるだけで済んでいる。

元校長のT氏は「作文の授業が極端に減ってきた」のを身近に見てきた。

問題は卒業アルバムの作文にあるのではない。おそらく近い将来全国の小中学校で卒業アルバムは作文がなくなり、個人の顔写真もなくなり簡素なものになる。

問題は児童生徒の作文能力を伸ばさなくていいのかという点にある。

藤原正彦が「国語が大事」という国語教育は漢字や言葉を覚えることにより、それをつなげて文章にする力をつける教育。「読み書き」が深く広く考える人を作るという古典的思想に則っている。数学者である氏が、理数系の人こそ文章力が必要だと言ってくる。

もちろん研究者やエンジニアだけでなく、指導的立場に立つ人はみな高い文章力が求められる。文章力のない人は自分で考えて問題を解決する(前へ進む)ことができないからである。

読書も大事だが作文はより大事なのだ。読書によって文章力は向上する。作文のために本を読む。

小学四年から中学三年まで宿題で毎週一本作文のテーマを与える。国語の授業はその作文の評価、優秀作の本人の朗読、文章作成上の注意点や技術の講義に大半の時間を費やしていい。

現状、現実にはこうした授業は難しいだろうが、国語教育の〝方向〟はこれである。この方向を見失ってはならない。


アイウィルが必要なくなる時

国語の教科書が厚くなり、読書の時間を設けるなど方向転換の兆しはある。しかし大学や高校の国語の入試問題が、全国学力テストと同じ傾向である限り、作文重視の方向にはならない。

大学文系の卒業論文四〇〇字五〇枚以上は四年間の勉強の集大成である。小学六年の卒業アルバム五〇〇字の作文は六年間の勉強の末の卒業論文である。

子供は一〇〇本に及ぶ課題作文の提出、教員による添削、修正、評価を受けて、文章力は磨かれている。その〝卒論〟は赤ペン添削の必要のないデキバエになっている。大人になっても誇れる〝作品〟である。

一芸に秀でた名人や職人に「一文字もない」人がいる。読み書きなんて…と言う。確かにこうした人に学校教育はいらない。

公教育はこうした特別な天才のための場ではない。まともな社会人、仕事ができる人になる基礎を作る場である。自分で考える自主独立の人を作る場である。

私たちは思考力の衰弱が甚(はなは)だしい。思考力は理解力(読み)と表現力(書き)によって向上する。この常識が学校で行われていないからである。

会社は生き残るために、自分で考え行動する社員を求めている。そのため思考力向上の社員教育に時間と経費を掛けている。

アイウィルは「学校教育の再教育」を唱えて社会人に読み書きの研修を行っているが、学校が作文教育を徹底するならばアイウィル研修は不要になる。

T先生、お手紙ありがとう。


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