染谷和巳の『経営管理講座』
人材育成の新聞『ヤアーッ』より
「経営管理講座 427」 染谷和巳
手書きが思考力の基礎
文章は活字を指で打ち出すものに変わった。文字を書く、文章を書くには〝過程〟がある。一つの文字の入りから仕舞いまで、文章の初めから終りまでを頭が手に伝える。これが作文の過程である。これが考える力を育てる。〝打ち書き〟はこの過程の重要性を無視して、今や「書く」の本流になった。
難解語の壁にどう立ち向かう
荒田が読めなかったり、長年間違って言っていた地名。
栃木県の祖母井、千葉県の匝瑳市、酒々井町、大阪府の私市、広島県の己斐中、岐阜県の各務原市。
うばがい、そうさし、しすいまち、きさいち、こいなか、かかみがはらし。
仕事や手紙で知った地名である。関わりのない地名で読めないものは五万とある。北海道や沖縄の地名は仮名が振っていなければ正しく読めないものばかりである。
地元の人は自分の住んでいる所や近隣の地名は読める。荒田は葛飾区金町(かつしかくかなまち)に住んでおり隣町は新宿(にいじゅく)である。縁のない人は葛飾区や新宿が読めない。
人名も同じ。姓にも名にも難読のものが多い。
地名も人名も意思疎通に欠かせない重要な言葉である。ただし間違えても直せば意思は通じる。荒田は私市をわたくししと読み、駅の表示にきさいちとあるのを見て無知を恥じた。
地名人名を間違える恥は軽い。一瞬である。「あ、そうでしたか」と頭をかけば済む。話は前に進む。
意思疎通の道具である言葉の中には、話しても書いても相手に通じないもっとやっかいな言葉がある。
荒田は「哲学」を専攻した。
哲学といえばカント、ヘーゲル、ライプニッツ、ニーチェ、ハイデッガーなどドイツ出身者が多く、哲学科の学生はこうした哲学者の本を読む力を求められた。
教授の研究室での授業は原書の〝独文和訳〟が主で、予め割当てられたページを学生が予習してきて発表する。毎週これが繰り返されるのを知って、荒田は初め三回出ただけで後は欠席。二度と授業に出なかった。
他の教授も自分が研究している哲学者の本を読ませる「語学」の授業になっており、英語も身についていない者が第二外国語の授業を受けるのは苦痛でしかなかった。
哲学は人間について考える学問だと思って専攻したが、入口にドイツ語の壁が立ちはだかり荒田の入場を拒んだ。
翻訳された日本語の本があるじゃないか。それを教科書にして授業をすればいいのにと思った。図書室から本を借り出して読んだ。
読めない。
荒田が今までに読んできた本には出てこない言葉で書いてある。辞書を引いて調べないと進めない。その辞書の意味解説が難解である。〝調べる〟が得意の荒田は音を上げた。
「形而上学(けいじじょうがく)」は辞書を引いても解らない。中国の〝易経〟にある「形而上」からとった言葉のようだが、荒田は解らないまま死ぬだろう。
演繹(えんえき)、帰納(きのう)、弁証(べんしょう)、実存(じつぞん)、表象(ひょうしょう)、観想(かんそう)、唯物(ゆいぶつ)、理論知(りろんち)。
哲学用語専門の辞典があり、それで意味を調べてみる。病名など医学の専門用語やカタカナのデジタル関連の用語が解説を読んでも解らないのと同様、荒田には〝お手あげ〟である。
「できない」「無理だ」と言うなと偉そうに教えているが、無理に尻を叩いて挑戦すれば、少しおかしい頭がさらにおかしくなる。「変人」から「狂人」に格上げされる。それで哲学と縁を切った。
荒田は哲学科卒である。こんな不良学生によくぞ卒業証書を出してくれたものである。
哲学科はヘンなのが多かった。同期生十八人のうち十四人は四年で卒業して全員高校教師になった。一人は中途退学、荒田は二年留年、二人が四年留年。この四年留年のうち一人は高校教師、もう一人は荒田と似たような経歴の持ち主で「江戸の犯罪と仕置」「火附盗賊改の正体」など時代考証家として多くの本を出した丹野顯(あきら)(ペンネーム淡野史良)である。丹野は昨年亡くなった。
丹野には「あなたの日本語はここが間違い」「四字熟語事典」「漢字、ことわざ雑学知識」など言葉に関する著書も多い。やはり哲学用語に対する反発があったのだろう。江戸時代の庶民の言葉や生活の知恵を愛した人であった。
人と話をしたり文章を書くには頭の中に言葉が詰まっていなければならない。しかし意味が解らない言葉は覚えていても使いようがない。荒田は哲学用語やデジタル用語はごみ箱に捨てた。「どうだ」と難解語を駆使する〝賢者の文章〟は一行読んでサヨナラした。
話すのも書くのも身の丈に合った言葉を使えばいいと割切った。
書くから打つに変わった弊害
日本人は昔は筆で字を書いた。今は鉛筆やペンで書く。目と指に神経を集中する。これによって脳が活性化し、思考力が伸びる。
アイウィルはビジネス研修と管理者研修のレポートは全て手書きを強要している。考える力を伸ばすために「たくさん書く」経験が欠かせないからである。
経営者研修は読書論文は手書きを求めるが他のレポートはワープロ打ちでよしとしている。
これまで十分書いていて脳が成長して思考力も伸びたので、これ以上負荷をかけなくてもいいと判断してこうしている。提出課題が膨大で時間とエネルギーを節約せざるを得ないためもある。
二十六期卒業の宮木美絵子(現在結婚して花里姓、カナエ産業㈱社長)はワープロを一切使わず、全課題を手書きで提出した。「手書きでないと自分が出てこない。だから手書きにこだわるんです」と言っていた。花里社長は今も手紙やオーナーへの報告書を手書きで通している。敬服する。
子供の頃から読み書きを行い、大人になるまで十分な思考力を身につけた人が、ワープロやスマホのメールやSNSに変わるのはいい。頭に言葉が詰まっており自力で文章を書く〝基礎〟ができているからである。
子供の頃からワープロで文字を打つばかりで、ほとんで自筆で書くことなく育った人はどうか。
ワープロは正確でスピードがある。しかしワープロの文字文章には欠陥がある。
手書きは一つの文字を書くには頭から「つぎはどう書く」「こうしてこうしてこうなって」という指示が出る。手がその指示に従って表現する。文章も「つぎの言葉そのつぎの文字」を頭に思い浮かべて書き出す。
ワープロはこの頭の働きを〝ムダな作業〟としてカットした。指先を触れれば印刷活字がポンと出てくる。
文章をほとんど書いたことがない人は頭の中の言葉が少ない。出てきた字が自分が求める字かどうかの判断ができない。文章でもつぎの言葉が思い浮かばない。
文章を指で打つ習慣を身につけた人は、広く深く考える力がない。小中学校で作文授業を受けず、タブレットを打つだけで育った人はナリは一人前でも頭の中は空洞に近い。
手書きはムダな作業ではなく、考える力を伸ばす最も重要な作業である。
ワープロは考える力のない人を作る。これが欠陥である。
手書きを十分やって大人になってからワープロを使うならいいが、未熟な子供が〝打ち書き〟に慣れてそのまま大人になると、善悪正邪の判断ができない思考力不足の危険な人になる。
こうした人が増えている。本も新聞も読まず一日スマホの画面を見ている人、頭の中がからっぽなので「こわい?」「おもしろい?」「うまい」「楽しい」といった単純な感情に強く反応し、こうした声に迎合して流される人、非常識、不人情を平然と行う人が増えている。
習字算盤(そろばん)を捨ててデジタルへ
かつてほとんどの子がそろばん塾と習字教室に通った。荒田もそのひとりである。どんなに貧乏でも親は月謝を払って通わせた。
そうしなければ向こう三軒両隣から白い目で見られる。日本人の仲間に入れてもらえなくなる。親はこう感じて見栄を張った。
おかげで日本の子供は数字に強くなり、難しい日本語を自在に書けるようになった。考える力の基礎を子供時代に身につけられた。
今の子は学習塾に通い、そろばんと習字の塾には行かない。
小学校でそろばんと習字を〝教える〟よう文科省が指導しているが、大半の学校がやっている形だけ作って熱心な指導をしていない。
国語の原点は習字である。漢字を一画一画ていねいに払うところは払い、撥ねるところはきちんと撥ねて書く。漢字の手書きの繰り返しが、言葉を増やし、子の脳を活性化し考える頭を作っていく。
ゆとり教育が間違いだったと白旗をあげたすぐ後に小学校の英語授業を始め、つぎにデジタル授業に力を入れよと指示を出した。文科省の〝国語教育軽視〟は度を越している。